滋賀の宮村

滋賀の宮村とは?

滋賀の宮村とは?

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History Of Miya

宮村の歴史

明治二十二年から昭和十八年までの間、現在の甲賀市甲南町第三学区(柑子区、下野川区、上野川区、下馬杉区、上馬杉区からなる)区域は「宮村」と呼ばれていました。

大正から昭和初期にかけて、日本は経済恐慌の荒波を受け、全国の農村は危機に直面。
そんな中、全国に先駆けて多角的な農業経営や産業と教育の結合による人づくり運動などを行い、経済厚生運動の模範村に指定されたことで宮村の名が国内をはじめ近隣諸国にまで広く伝わりました。

昭和七年には経済厚生運動の内容などが記された書籍「滋賀の宮村」が発刊されます。
村民の総力を結集し「地域の自力再生」のための組織づくり、事業や計画内容を細かく記した著書おり、著書の一部では、当時の課題に対して、長を筆頭に地域が一丸となり課題解決に向け行動を起こす姿が細やかに記されています。
当時、模範村宮村の研究は確実に自力再生のヒントがあると、国内外から村へ視察に訪れる人は毎年1,000人を超えていたと言われています。

近年の人口減少、少子高齢化や過疎化、農林業の不振による地域の活力低下が進み、様々な救済施策が行われていますが、単に外部からの力では意味を持たず、真の救済は、外部からの救済を待つより先に自力再生を図ることこそが、宮村に伝わる真の教えという事です。

宮村の写真

History Of Miya

宮村に伝わる「聖徳太子伝説」について

遡る事「飛鳥時代」芦浦村(栗太郡)にて物部守屋討伐に出陣した聖徳太子。
しかし、栗田郡での戦いには敗走し毛枚村(甲賀郡)にまで退陣し陣を敷きなおします。
見事、油日村(甲賀郡)にて守屋連を打ち取ったことから甲賀(かぶとよろこぶ)郡と名付けました。

太子はこの戦いの中で活躍した「杉原斎入」という人物に「馬杉」の姓と地名を与え、太子の馬を杉の木につなぎ留め頭の方角を上、尾の方角を下とし「上馬杉・中馬杉・下馬杉」としました。

さらに、この杉原斎入は「大伴細人(細入)」という人物であったという説があり、聖徳太子には「志能便(しのび)」を抱え朝廷内の動きを探っていたという記録もあり、細人以外にも服部氏族などの忍者を使っていたと言われており、服部氏族が伊賀忍者、大伴細人が甲賀忍者の源流とされています。

また一方では、当時の実力者・蘇我馬子も忍者を使っていたともいわれておいう説もあり、馬子の忍者は聖徳太子が使っていた「志能便」と違い蘇我氏の政敵を排除する、いわゆる暗殺者であったといわれています。
蘇我氏は聖徳太子とは別の形で忍者を使って、自分たちの権力をゆるぎないものにしていったのです。

このように自分の地位や権力を守るために、政治の護身術として忍者を活用していたようです。
今なお、上馬杉区には聖徳太子を祀る太子堂があり、毎年秋には太子祭がとり行われています。